今日は8月の第一主日、平和聖日です。私たちにとって八月は、原爆を受けたとき、敗戦のとき、あらためて戦争と平和を思うときです。

 私は1945年、敗戦の年には国民学校の5年生で、それなりに大変動の記憶は鮮やかです。現在の日本の政治には多くの不満もありますが、敗戦後57年にわたってともかく戦争をしていないことは評価すべきことだと考えます。そして今後も非戦・平和を貫くべきだと思うのです。

 平和とは戦争のないことでしょうか。聖書によれば平和は戦争がない状態のみを指すのではないのです。戦争がないことはもちろん絶対に必要ですが、それだけではなく、ヘブル語のシャロームとは「ものが本来あるべき理想的な状況である」状態をいうのです。創世記で植物、動物が作られた後で人間が支配者、管理者として造られますが、人間の食べ物として与えられたものは『種を持つ草と種を持つ実をつける木』でした。その他の動物たちは青草を食べるように定められている・・・つまりそこには奪い合いもないし、殺し合いもない、そういう世界の秩序を維持するのが人間であると聖書は考えているのです。

 奪い合いと殺し合い、それが際限なく続いているのが現実の人間の世界なのですが、それは神が良しとされた世界とは全くかけちがっているのです。現在シャロームが欠けているところとして一番心にかかるのがパレスチナです。先日、パレスチナの子どもたちが主人公のノンフィクションの『プロミス』という映画を見ました。イスラエルの子どもたちとパレスチナの子どもたちとが、アメリカ人の紹介で一緒に遊び、食事をしてすっかり仲良くなるのです。子どもたちは最後に、ユダヤ人が皆悪い人間ではないし、パレスチナ人が皆テロリストではないことを知ります。幼子のようでなければ天国に入れないというのは絶対的な真実であることを教えられます。小さな者たちの成長を助ける人々がいることを深く感謝したいと思いました。。

                              


マルコによる福音書 9章42〜50節
希望はあるか
2002年8月4日